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BNP
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 哲学者でハワイの研究家でもある筒井史緒先生によるハワイのシャーマニズムの原稿を掲載します。
筒井先生はハワイ生まれで、京都大学卒業の哲学博士でもあり、なんとシンガーでもあります。2013年3月には「つむぎね」というグループの横浜での公演に出演、その素敵な声を聞かせて下さいました。

どうぞ、ハワイのスピリットを求めての旅をお楽しみ下さい。

   うつくしきかな、ハワイイ

●ハワイを哲学する

こんにちは、はじめまして。筒井史緒と申します。つついふみお、と読みます。一歳半までハワイ島ヒロで育ち、ハワイの精神性についての思想的研究にたずさわっている宗教哲学者です。これから、気まぐれに、不定期に、ハワイの天国らしさの真髄に近づくことを目標に、こちらにコラムを書いてまいりたいと思います。

といっても、わたしはここで「これが本当のハワイだ!」という、唯一絶対なる答えを導く作業をしようとは考えていません。というよりも、はなからそんなことは不可能である、というところから出発しようとしていることを、まずはみなさんにお断りしておきたいと思います。わたしは学者ですから、明確な答えや、はっきりした結論を求めてお読みになるのかもしれませんね。でも、こと「ネイティブ・ハワイ」というものがいったいいかなるものかというと、実はそのようにはっきりと名指しうるものは存在しない、というのが実情です。

なんて言うと、少しでもハワイ文化に興味をもたれている方なら、きっと不思議に思いますよね。じゃあフラは? ロミロミは? ホ・オポノポノは? ネイティブ・ハワイアンと言われる人々の存在は? って。そう、一見すると、「本物のネイティブ・ハワイ」というものが確固として存在しているようにも思える。でも、今日のちほどお話するように、「ネイティブ・ハワイ」という概念は、実はその実体がきわめて曖昧なものなのです。

でも、じゃあハワイを語ることはあきらめるしかないかというと、そうでもないのかもしれない、とわたしは考えています。答えがないからそこで終わりなのではなく、答えがないところから出発してみよう。それが、この連載の基本的な姿勢です。くっきりとした答えが存在しえなくとも、わたしがハワイを思うとき、やはりそこにハワイ性というか、「ハワイネス」としか名指せないようななにかを感じる。そしてそれは何だろう、と思う。それがはっきりとした歴史的・考古学的裏付けによっては提示できないからこそ、ますますそのなにかは強烈に存在感をあらわにし、人を惹きつけるような気がしてならないのです。

そのハワイネスというべき「なにか」に近づくアプローチとして、わたしは「ハワイを哲学する」という方法を選びました。歴史学でも考古学でも人類学でもなく、ハワイを哲学する、という営みです。もしかすると、ほとんど文学に近い営みでもあるかもしれません。それは、わたしがそもそも哲学者だからでもあるけれど、事実を積み上げるのとは別のしかたで対象に近づくことを、どこかで信頼しているからでもあります。


●印象派のように描くこと

みなさんはフェルメールやモネの絵をご覧になったことがおありでしょう。かれら印象派と呼ばれる画家たちが対象に迫るアプローチは、対象そのものの本質をごっぽりつかみだすというやりかたではありません。そうではなく、かれらはただ、そこにある光の色を、ひとつひとつ丁寧に写し取る。りんごなら赤、ではなく、白く光るところは白く、青味がかった影は青味のグレイ、といったぐあいに。かれらはりんごを描くために、「りんごそのものを描く」ことを捨てる。そしてただ、自分の目に映る光を写しとる。その結果、本物とみまごうばかりの生き生きと生命に満ちたりんごがそこに現出する。それは普遍をいったん手ばなすことによって、逆説的に普遍を獲得するというアプローチです。

もしかしたら、ものごとの本質というものは、ひとりの人間にあまねく語れるようには存在していないのではないかと思います。客観的事実というものがなにか個人から独立に存在しうるとしても、それを眺める者によって、現出する像はそれぞれに異なるからです。ある人間とまったく同じ世界像を見る人間は、この世にひとりとして存在しません。そして、そのどれもがその事実のひとつの像ではあるけれど、事実そのものではない。けれど逆にいえば、事実は誰かに見られた像としてしか、その姿を具現化させないものでもあります。

ならば、ひとりの人間に可能なのは、ある対象とみずからの眼差しの出会いによって立ち上がる像を語ることだけなのではないか、そしてそれでじゅうぶんなのではないだろうか。わたしはそんなふうに思います。その像は、対象に潜在するすべての質を完璧にもらさず説明できるものではないでしょう。というより、そもそもそんな説明は存在しえない、というのがわたしの考えです。でもだからこそ、そのような限定的な像の集合体としてしか、あるものの姿が現出することはないのです。だからこそ人は、みずからの眼差しに映る光の色を、言葉や絵の具や音や声によって具現化せずにはいられないし、そのすべてが世界の声のひとつとなるのでしょう。それが人が生きていることのあかし、いのちのあかしであり、そのあかしの集合体としてのみ、世界はその姿をあらわにできるのかもしれない。わたしはそんなふうに思います。

人と世界が出会うことで、見るものと見られるものが出会うことで、眼差しと対象が出会うことで、その「あいだ」に、ひとつの像が結ばれる。そして、見るものも見られるものも、その像を成立させるものとして、初めて存在するにいたる。わたしがそのように世界を経験しているということ、わたしによってしか具現化されなかった世界のかたちがあるということ。そのかたちそのものが、わたしがここに存在しているというしるしであり、世界もそのように見られ経験されることによってはじめて、その潜在していた可能性を具現化させ現出するに至る、そのような邂逅によるいのちの宿りを、わたしは信頼しているのでしょう。個人的でないニュートラルな手つかずの事実へと、直接に向かうのではなく、ただ個人の眼差しにとらえられることでしか、なにかが存在に至ることがないということ、その限定的なかたちを写しとることだけが、普遍的な事象に接近し、それを語りうる方法なのではないかということを。

ですから、わたしがハワイに近づく方法も、光の集合体としての印象派の絵のような、そんなハワイ像を描くことです。そしてもし、わたしの眼差しに映るハワイの像を語ることで、そこに「ハワイネス」というひとつの普遍が光の集合としてぼんやり立ち上がって見えたら、そんなにうれしいことはありません。くしくもハワイには、モ’オレーロという語りの形式が存在します。英語ではtalk storyと訳されるこの形式は、ある普遍的な事実を語るために、普遍的な語彙で普遍的な構造を語るのではなく、「おはなしをする」、つまりとても個人的で具体的で限定的なストーリーを話すというやりかたをとるものです。ストーリーという具体的な像から、普遍が透けて見える、それがモ’オレーロの態度です。ですから、わたしのこのコラムでのアプローチが、そもそも「ハワイ的」であると言っていいのかもしれません。

という感じで、ハワイが人にどのように沁みこみ、生かし、動かすのか。それを、ひとつひとつの光の色の点を置くように、すこしずつ、考えてみたいと思っています。どうぞ、ふんわりゆるやかに、おつきあいくださいますように。


●いかにしてネイティブ・ハワイを語るか

さて最後に、初回である今回は、すべての前提として、わたしがこのようなアプローチに至った理由、つまりどうして「ハワイ」というものを、とりわけ「ネイティブ・ハワイ」というものを直接に語ることができないのか、ということを解説して、締めくくることにしましょう。

ハワイはポリネシア文化圏の一部を形成しており、タヒチを中心に、ニュージーランド、イースター島、ハワイ諸島をそれぞれ頂点とする巨大な三角形=ポリネシアン・トライアングルの北端に位置しています。この大三角形に広がるポリネシア文化は、それぞれの土地で独自の発展形をもってはいますが、基本的な言語や神話や世界観や生活様式などはほとんど共通です。その共通項のひとつとして、文字をもたないということがある。かれらの文化、かれらの智恵、かれらの歴史は、すべて口承によって人から人へと直接に伝えられてきたものなのです。しかも、伝言ゲームのようにだれかれとなくランダムに伝えられるのではなく、それぞれの職能に、専門の「カフナ」と呼ばれるマスターが存在し、一子相伝的に、もしくは才能のある弟子のみに、きわめて注意深く、一言一句たがわぬかたちで伝えられてきました。日本で言う「言霊」のように、言葉には「マナ」と呼ばれるパワーが宿っていると考えられていたので、その誤用もまた、大きな混乱をまねくと考えられていたからです。

現在でも、フラのチャントやメレなどに代表されるように、ハワイ語で歌いあげられるいにしえの神話や祈りは残されているため、一見すると、この口承文化はいまもしっかりと残されているようにも思えるかもしれません。しかし、この口から口へとていねいに守られてきたかれらの文化すべてが、決定的に失われた時期があるのです。1778年にキャプテン・クックがハワイにやってきて以来、まず白人が持ち込んだ疫病によってハワイアンが大量に死亡しました。とうぜんのことですが、口承は、伝える人間がいなくなれば消滅します。これに追い打ちをかけるように、それまでハワイ社会の世界観を決定的にいろづけていたカプ(タブー)をはじめとする伝統宗教・精神文化の破棄が、ハワイ王国の政治抗争のなかで決行されました。1825年のことです。さらにほぼ時期を同じくして、ハワイ全体にキリスト教が広まり、ハワイ語や伝統文化が邪教的であるとして禁止されたことによって、それまで綿々と語りつがれてきたハワイ古来の文化や智恵や歴史はたてつづけに打撃をうけ、文字記録がほぼない状態で壊滅的に失われてしまったのです。

こうしたハワイ古来の伝統文化は、1970年代から始まるハワイアン・ルネサンスと呼ばれる動きによって、現在にいたるまで加速度的に「復興」されてきてはいます。しかし、いったん壊滅的に失われたという事実は重く、もはや完全な形での「再現」は、純血のネイティブ・ハワイアンの人々にすら不可能な状態です。かろうじて残された文献や口承も、どこかでキリスト教による西欧的再解釈がなされたことは疑いの余地がありません。さらにやっかいなことに、もはや、そうした影響がどこからどこまでなのかを確定することじたいが、きわめて困難になってしまっています。そしていまや移民の地となったハワイは、時をおうにつれ混血がすすみ、純血のネイティブ・ハワイアンはほとんど見られなくなりました。

それでももしかすると、「手つかずのネイティブ・ハワイ」というものが、どこかにまだひっそりと残っている可能性は、あります。それは否定できない。禁止をくぐりぬけ、純血をたもち、変わることなく受けつがれてきている智恵が、どこかにまだあるかもしれない。でもそれは、よそものであるわたしには、けっして開示されることはないでしょう。そのようによそものに秘されることでしか、手つかずのまま生き続ける道はなかっただろうから。


●「純血」と「よそもの」

ネイティビティというものを考えるとき、かならず障壁となるのが、この「純血」と「よそもの」という二項対立の存在です。そしてわたしたちは、純血こそが正しいあり方だと考える傾向がある。まじりけのないものこそが、唯一の正解なのだと。もちろん、ほうっておけばどんどん失われてしまう伝統文化の再興と保存が喫緊の課題であることはいうまでもありませんし、とりわけネイティブ・ハワイアンの人々にとって、「ハワイ」の意味が本来の伝統的なそれを離れてゆくのを見ることは、心痛むことであるに違いないのです。ハワイ王国のふたたびの独立をも視野に入れた先住民運動が、伝統文化をどれほど貴重な宝のように囲いこみ、守ろうとしているかを考えると、諸手を挙げてハワイの変化を歓迎する、というふうにはやはりなりません。でもそれでも、それと同時に、ハワイがその変遷のなかで、柔軟に異質なものをとりこみながらなおかつ「ハワイ的なもの」をその中心に残しつつ、しなやかにしぶとく新たなローカリティを生み出し続けていることもまた、事実なのです。そしてわたしは、「純血」対「よそもの」という境界がいやおうなく失われつづけていることを、事実として受けとめることからしか出発できないことがあるのではないか、そんなふうに思えるのです。

そして、もしかすると、よそものだからこそ感じ取れるエッセンスというものが、あるかもしれない。ラフカディオ・ハーンがあるしかたで日本人よりも日本というものを体現したように、異質な眼差しにとらえられることによって、思わぬしかたでその像をあざやかに浮かびあがらせることが、あるかもしれない。そしてそれはただたんに本来のハワイから乖離してしまうありかたではなく、新しいかたちでハワイという土地と結びつき、愛し合い、そこに根をおろすような、そんな「新しいネイティビティ」を模索するプロセスに、なるかもしれない。現代に生きるわたしたちの多くは、なんらかのしかたで「よそもの」として存在しています。純粋な血筋と歴史によって、ある土地とわかちがたく結びついているという人のほうが、おそらくは少数でしょう。そのような、根本的によそものであるわたしたちが、純血という「正解」をもちえなくとも、ある「真実」を生きることができるような、そんな道のひとつのモデルを、わたしはハワイの新しいネイティビティを模索するなかで見出してみたいと思っているのかもしれません。そしてこの模索そのものが、わたし自身のハワイにたいするネイティビティのかたちになるのかもしれない、そんな予感もまた、もっているのです。

次回からは、ハワイ文化がその芯にもっている「なにか」をもとめて、カットグラスの刻面に映る光の色を一面一面写しとるように、ひとつずつトピックを切りだし、描いていってみたいな、と思っています。

イラスト Shunji Sawada

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